熊本県有機農業研究会の源流を訪ねて(1)

熊有研三十周年を前に、農民史研究家の内田敬介氏が、保管された資料をひもとき、創立当時の関係者への取材を重ねながら書かれた熊有研の源流を訪ねる旅を連載します。
当時を知る人からも、全く有研の歴史を知らない世代からも、ご意見をいただけることを願っています。


熊本県有機農業研究会が一九七四年(四九年)の秋に発足し、来年には三〇周年を迎えます。そこで、有機農業に早くから取り組まれた矢部町農協(現在JAかみましき矢部支所)の実践を調べるため、同町大字三ヶ字松尾の村上栄一さん(八三歳)を訪ねました。

新しい医療を創る会の誕生
村上さんは、かって矢部町農協の参事をされていました。昭和四〇年代は農村婦人の過労と栄養不良による貧血、農薬中毒などいわゆる農夫症が問題になっており、農協婦人部を中心に健康に暮らしたいという権利を要求した運動が始まっていました。
一方、当時の医師・竹熊宜孝さん(現在菊池養生園名誉園長)、小山和作さん(現在日赤健康管理センター名誉所長)などを中心に、予防医学をめざした「新しい医療を創る会」(昭和四五年一一月発足、初代代表・熊大医学部教授六反田藤吉氏)が生まれていました。

農薬の被害者は農民
村上さんは、当時の佐藤組合長(初代の熊本県有機農業研究会会長)とこの「新しい医療を作る会」などで学習する中で、次のように農業や農協のあり方に疑問を持ったと話されます。 
「多くの農薬を使った農業で、一番先に被害を受けるのは農民だ。農協は水俣のチッソのように訴えられるのではないか。今のような農薬を多く使った農業でよいのか、また農協は農薬を売って良いのか。」
そこで、農協は組合員や消費者の健康を守るのが農協の使命ではないかと考えて、組合長を先頭に集落座談会を開催し、有機農業の大切さを説いて回ったということです。最初は、なかなか理解が得られませんでしたが、松葉会、愛農会などの取り組みが進み、そして菊池、阿蘇、宇城などへ広がっていきました。やがて、第三回全国有機農業研究大会(大会当時の熊有研会長は小玉達雄氏)が矢部高校で開催されることになります。

理想と現実のギャップ
ところで、これまで有機農業に取り組まれてきた数名の女性(七五歳前後)に会いましたが、「自分たちは、消費者の健康を考えて農薬・化学肥料を使わず、水田に這いつくばって除草などをしてきたが、今は足腰が悪く、ゲートボールもでけん。」と言われました。有機農業のとりくみが、一面では農民に過重労働を強いてきたこと、また所得の問題など、理想と現実のギャップを垣間見ることになりました。
しかし、これらを乗り越えていくには、農民の信念と粘り強い努力・工夫とともに理解ある消費者の支援、そして、農民と消費者の提携が必要でした。このような中で、“生きとして生けるもの全てのいのち”を大切にした“世直し”としての「熊本県有機農業研究会」の設立に向かっていきました。


注1・矢部町農協 (現在JAかみましき矢部支所)
注2・「新しい医療を創る会」昭和45年11月発足。初代代表・熊大医学部教授 六反田藤吉氏

・・・熊有研機関誌「くまもとの有機農業」の1号から揃っています。読みたい方は連絡を。・・・

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